いよいよ2022年5月からのシーズン4に向けてカウントダウンに突入しましたね!
前回好評を頂きましたシーズン1に引き続き、今日はシーズン2を徹底レビューしたいと思います!
シーズン1の息を呑むようなラストシーンは圧巻でしたが、
でも、あの終わり方は「その後」が期待できないタイプの終わり方でした。
あまりにも全てが収まるべき場所へと綺麗に収まりすぎた。
あの完璧なラストシーンの後に語るべきことなど本当にあるのだろうか?
あの勇敢な少年たちにあれ以上の冒険が果たして期待できるのだろうか?
シーズン2が、そんな「パート2作品の難しさ」を乗り越えるために準備したのは、
ウィルに関する演出上のある2つの重要なファクターです。
そしてここにきて浮き彫りになる重要なメッセージとは?
シーズン2徹底レビュー、スタートです!
(↓シーズン1感想はこちら!)
あらすじ
舞台はシーズン1から一年後の1984年。デモゴルゴンを倒し再び平和が訪れたかに見えたホーキンスの街。
しかしある日、裏世界のさらに強大な怪物マインド・フレイヤーが出現。
ウィルを内側から操ることにより、こちら側の世界を新たな力で征服しようと試みる…
ここから先は壮大なネタバレを含む内容になっています。新鮮な気持ちでこのドラマを楽しみたい方にはオススメしません!
RPG要素としてのウィル探し
まずやっぱりシーズン2を語る上では、シーズン1との比較から入らなくてはいけません。
シーズン1の物語のベースにあるのは「ウィル探しの冒険」でした。
いなくなった友達を探す物語は冒険映画のお約束テーマだけど、これはかなり強いテーマだ。
仲間と離れ離れになる事で仲間の大切さに気付いていく子供達。
泣いたり笑ったりしながら成長していく子供達。
さらにウィル探しの過程で、エルやホッパーやスティーブといったかけがえのない仲間達も、まるでRPGのように続々と味方になってくれました。
ウィルが孤独でないといけない理由
一方で、シーズン2はどうでしょう。
いなくなっていたウィルは戻ってきた。
あの憎きマインド・フレイヤーに乗っ取られ苦しんでいるとはいえ、基本的には家にいる。仲間や家族にいつでも会える。
おまけにシーズン1の仲間たちもみんな元気だ。
これは続編を製作する上で、不利だ。
何故かと言うと、シーズン1の大きな魅力だった「ウィル探しの冒険と、その過程で出会う仲間達」というRPG感が、シーズン2では使えないからだ。
そりゃそうだ。一度戻ってきたウィルは、物語の整合上、友達や家族のそばにいつもいなくてはならない。いつもいつも失踪しているわけにはいかない。
パート2作品の難しさ
ここで一つ問題が勃発する。
ストレンジャー・シングスとは、孤独なウィルを救うために仲間達が立ち上がる物語だ。だからウィルはずっと孤独でなければいけない。
つまり、仲間達や家族に囲まれたシーズン2のウィルが、
はたして失踪してひとりぼっちだったシーズン1のウィル以上に孤独になれるのか?という問題。
これはシーズン2を作る上で難しい問題だったのでは?と思います。
ウィルを孤独にするのための2つのファクター
そこでシーズン2ではウィルを孤独にするための2つのファクターが提示される。
まず1つ目は、ウィル自身が乗っ取られるという事。シーズン2のメイン・ストーリーの部分ですね。
マインド・フレイヤーによって乗っ取られたウィル。現実世界と闇世界の行く末は全てウィルが一人で背負うことになる。
うん、これは孤独だ。めっちゃ孤独だ。
何というか、道徳的な視点で小学生にこんな重荷を背負わせるべきじゃないと思う。でもこれはドラマだ。ガンガン背負わせる。
ただ、これだけではシーズン1に比べるとウィルの孤独度数はまだ少し低い。
何故ならウィルは視聴者の目の前にいるから。
目に前にいるウィル
シーズン1ではそもそもウィルは失踪しているので、あまり画面に登場しなかった。
画面に登場しないからこそ、我々視聴者は、
暗くて寒くて汚いところでブルブルと震えている超絶孤独なウィルを想像した。
いつも心のどこかでウィルの身を案じる自分がいたりした。
それに比べてシーズン2のウィルは、乗っ取られているとはいえ、頻繁に画面に登場する。仲間や家族の目の前にいる。
失踪して目の前からいなくなってしまった仲間を救う物語に比べて、目の前にいる仲間を救う物語は、弱い。
ウィルが登場しないからこそウィルのことが心配で仕方なかったシーズン1に比べて、
シーズン2のウィルは常に登場する分、視聴者の想像力が刺激されにくいのだ。
ウィルのさらなる孤独化
そこで、ウィルの孤独度数を引き上げるために2つ目のファクターが用意される。
それは、ウィルが苦しんでいる間にウィル以外の仲間同士が仲良くなっていくというファクターだ。
それはもう次から次へと登場人物がペアになっていく。
エルとホッパー。
エルとマイク。
スティーブとダスティン。
ジョナサンとナンシー。
ジョイスとボブ。
マックスとルーカス。
彼ら彼女らは、仲間という枠を超えて、一歩踏み込んだペアという関係性になっていく。何だか楽しそうだ。
その一方でウィルはずっと孤独だ。
ずっと孤独なままのウィルと、より親密になっていく仲間たち。
この効果はけっこう凄い。
乗っ取られるだけでは少し物足りなかったウィルの孤独度数が、うなぎ登りに上昇する。
我々視聴者は、もう観ていてウィルが不憫で仕方がなくなってくる。
引き続き孤独なウィル
そんな訳でウィルはシーズン2でも引き続きめちゃめちゃ孤独だ。
そのめちゃめちゃ孤独なウィルを救う物語として、ストレンジャー・シングスは新たに再出発する事ができる訳です。
キャラクター達のさらなる魅力
で、この仲間たちが次から次へとペアになっていく感じは、
結果的にシーズン2最大の魅力にもなっています。
それはウィルの孤独度数を上げるという役割だけでなく、
シーズン1ですでに完成していた各キャラクターの個性を、相手との関係性の中でより魅力的に描く事でドラマに広がりを与えている。
例えばダスティンとスティーブの凸凹コンビ。この二人のやりとりはシーズン2以降の大きな魅力となる。
例えば亡くなった娘をエルに重ね合わせる事で何かを取り戻そうとするホッパー。
転校生マックスに思いを馳せるダスティンとルーカス。
そして想いを果たせなかったダスティンを慰めるナンシーとのダンスシーン。あれはシーズン2屈指の名シーンだ!
(何故ならあのダンスで救われたのはダスティンだけじゃなく、現実社会のダスティンこと僕たちのイケてない魂も救済してくれた!)
そんなわけで、仲間の絆という大きな枠を描いたシーズン1に対し、相手との関係性の中での個性をきめ細かに描いたシーズン2。
そんな風に感じます。
シーズン2で浮き彫りになるメッセージ性とは?
もう一つ、個人的に強く心に残る事象があります。
それはあるメッセージ性の事。
ストレンジャー・シングスの根底にある不変の世界観として、
世界の危機に無関心な大人たちと、世界を何とか救おうと一致団結する子供達、という構図がある。
無関心な大人というのは、例えばマイクの両親やルーカスの母親。街の住民たち。さらには研究所の職員たちのあの感じ。
子供達がいくら大騒ぎしても、どれだけ説明しても、大人たちはどこまでも無関心なあの感じ。事の重大さを全然分かってくれないあの感じ。
本当の敵
そう、この物語では、大人たちが作り上げたモンスターの後始末は、一貫して子供達がするしかないのだ。
なぜなら大人たちはそんな事に全然興味がないし、これっぽっちも頼りにならない。
そもそも大人たちなんて最初から頼りにしていない、というのが子供達のスタンスなんだ。
この大人達に対する諦めのスタンスは、
若い世代による我々親世代に対する姿勢そのものではなかろうか?
次の世代へ、次の世代へと問題を先送りしてきた我々世代に対するメッセージだと取れないだろうか?ある種の皮肉として取れないだろうか?
排気ガスを量産し、石油を掘り尽くし、間違った政治家に投票し続けてきた親世代が壊してしまったのは、子供たちの世代が属する世界なんだよというメッセージ。
そのツケは、責任のない子供達に全部回ってきている。
子供達が戦っている本当の敵は、モンスターなんかではなく、このメチャクチャな世界を作り上げてきたくせに知らんぷりを続ける大人たちなんだ。
スーパーヒーロー
ただ、例外的に、子供達の手助けをする大人もいる。
我らがホッパーやジョイスだ。あの変人マレーやお人好しのボブだ。
彼ら彼女らは、世の中のレールから少し外れたところに居場所を見つけた人たちだ。「ちゃんとしていない大人」だ。
でも彼ら彼女らは、世界の危機に知らんぷりを決め込まずに、全力で動き回る。
子供から見れば紛れもなくスーパーヒーローだ。
視点変換の仕掛けから見えてくるもの
ストレンジャー・シングスというドラマは、そもそも我々大人が、冒険する子供達に感情移入するような作りになっている。
これはどういうことかと言うと、
現実社会では問題を先送りする側にいる僕たちも、このドラマに没頭している間だけは、いわばバーチャルに的にツケを払わされ続ける子供たちの側の視点に立つ事になる。
この視点変換の仕掛けはストレンジャー・シングスの根源的な面白さなわけだけど、
その子供側の視点に立った時に見える、ホッパーやジョイスのような「ちゃんとしていない大人」の神々しさ。
同じく子供側の視点に立った時に見える、見栄や建前ばかりを気にする「ちゃんとしている大人」のダメダメさ。
この描き方が何を意味しているのかと言うと、現実とは180度逆転した価値観をドラマの中でバーチャル的に体感した僕たちは、現実に戻った時に何を思えばいいのか?という問いかけなんだ。
最後に
いかがでしょうか。ストレンジャー・シングスの面白さの裏側には、縦横無尽にこのような仕掛けが張り巡らされているように思えます。
繰り返し見るたびに微妙に印象が違ってくるのもそのせいかも知れませんね。
今日はここまでです!
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